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      「本来の自分」とは何か?


人生は、エンジョイするためにあるのです。然れど、私たちは人生

の中で様々な困難、苦難に出会います。それを克服したいと多く

の人が信仰に救いを求めています。私もその中の一人でした。人

は何故、苦悩するのでしょうか?その事をお話しする前に、「本来

の自分」とは何でしょうか?そこからお話を始めることにします。


あなたは今までの人生の中で「本来の自分」とは何か?考えら

れたことありますか?人はよく自分探しの旅に出るとか、人間の

ルーツを辿るとか・・・といって全世界を旅して廻る人がいますが、

それでは本来の自分に辿り着くことは出来ません。なぜなら、そ

れらを解くカギは自分の意識(心・魂)の中にあるからです。 私た

ちは、一度や二度この地上に生まれてきたような存在ではない

のです。その証は、赤ちゃんにあります。


それは母親の卵子と父親の精子が巡り会って受精し、受精卵に

なります。 その受精卵は六十兆〜七十兆余まで細胞分裂を繰り

返して、約十月十日で赤ちゃんとして生まれて来ると言われてい

ますが、一個の受精卵から赤ちゃんとして生まれてくる迄の過程

で、赤ちゃんには鰓呼吸器、水掻き、尻尾があります。


細胞分裂を繰り返しながら、しばらくして、鰓呼吸器、水掻き、尻

尾はなくなりますが、それは、あなた(魂)の中に宇宙の始まりか

ら現在のあなたに至るまでの情報(メカニズム)が縮小(古文書)

されていて、それらの細胞が今までに経験してきた過程を終えて

、その役目を果たして走馬燈のように消えて(退化)いく姿である

のです。


つまり、「人体とは宇宙の構造的縮図」であり、NHKテレビ番組

で"人体は小宇宙"と言われているのが、その意味なのです。よ

って私たちは、人間(魂)形体になるまでに「鉱物」「植物」「動物」

も経験してきたのであります。 故に、人体には鉱物も、植物も、

動物も必要不可欠であります。


私たち人間(本当は否人間)、そして、ありてあらゆるモノの魂の

奥にある記憶の宝庫の中には、過去、何十回、いや何百、何千

回、この地上界に生まれ変わったか、そのときの記憶が厳として

あります。 その様な記憶は霊能を持った人だけにあるのではあ

りません。(もしそうだとしますと「天は人の上に人を創らず、人の

下に人を創らず」全ては平等だという神意に反します。)


それは、森羅万象・全てに初期の宇宙、いやそれ以前から現在

の人間形態に至るまでの、魂の経験として培ってきた記憶なの

です。 しかし、人間は永年の転生の過程で培ったそうした英知(

経験)が有るにもかかわらず、この世に生を受けて、赤ちゃんの

頃から両親や家族、そして学校や、友人、知人、社会等、etcで、

物質を主体として出来上がった、この世的な様々な知識を純真

無垢なままの赤ちゃんに否応なしにインプット(マインドコントロー

ル)していくのです。


その事がどのような結果をもたらすのでしょうか?例えば1+1=

2、2+2=4と教えられてきた一年生がいたとします。そこに2〜

3才の子がきました。その子に1+1=と聞いたら"3"と答えが返

ってきました。何度聞いてもとしか答えない子に一年生は苛

立ち始めたのです。そこに先生が来ました。一年生は先生に聞き

ます。 ねぇ〜先生1+1=2だよね・・・と、先生曰く、そうですよ・・

・と。


先生この子はね、1+1=と聞いたら"3"としか答えない・・・とい

ったら、では先生が聞いてみようということで、その子に1+1=

と聞いてみます。 矢張り"3"と答えが返ってきました。もう一度

聞いてみます。また同じ答えです。(人は、子供でも大人でも、そ

の人の思っているとおりのものであって、それ以上でも、それ以

下でもないのです。)先生はあなたは間違っている、それぐらいの

常識も知らないのかといって罰を与えられる。ほら見ろ・・・といっ

て一年生は勝ち誇ったようにその子を睨み付けます。


確かに1+1=2である。 しかし、それは世界の人々が1+1=2

にしましょうと約束事で守っているからであって、でもい

いと約束すればもいいのです。従っては絶対的なもの

ではないのです。要するに世の常識とは、所詮私達が若い頃に

受けた教育が、私達の精神に及ぼした偏見に過ぎません。 これ

までにも沢山世界の常識が見直されて、教科書まで書き替えら

れてきたのではないでしょうか。


だから、その先生も1+1=と答えた子に対して間違っている

とは仰らないで、寧ろ一年生に対して、その子はまだ幼くて解ら

ないだけなんだから、そのことで喧嘩はしないで仲良く遊んでね・

・・と言って諭していたら、一年生はその子を睨み付けるようなこ

ともしないで、仲良く遊んでいたのではないでしょうか。 つまり、

私たちは言葉に掴まってしまっているのです。(イエス様が仰せら

れた、私の言葉につまずくもの)


・・・という訳で、私たちが身につけている知識は外から受け入れ

た情報であっての知識ではなく、自己の本質を知らんがた

めの予備知識であり、この地上界で生きていくための知識でしか

ないのです。 因って一歩宇宙に飛び出せば、その知識の観念概

念は殆ど効力を失ってしまうでしょう。故に、世の常識(偏見)をひ

とつ、ひとつ咀嚼し、把握して一人一人の心を変革していかなけ

れば、世界に平和はこないでしょう。


それは、これまでの歴史が物語っているのではないでしょうか。

これまでにも世界各国で沢山の人々が平和を願って様々なイベ

ントを行ってきたのです。それで世界は平和になっているのでしょ

うか?平和とは何でしょうか?平和とは「平」な「和」と書きます。

それは、世界の人々の心の中のトゲトゲを全てくなくしていかな

い限り、「平」な「和」になることは無理ではないでしょうか。


その為には、全ての人々の心が愛に満たされ、平安に満たされ

、安らぎに満たされ、静寂に満たされたとき、心は「平」な「和」に

なって平和が"成就"するのではないでしょうか。私たち日本の元

号も昭和から平成に変わりました。平成も「平」に「成」ると書きま

す。どのようにしますと「平」に「成」るのでしょうか?世の中で起

こっていることは全て私たちの心の現れです。心の反映です。


その自らの心を"統御"出来るのは、私であり、あなたなのです。

神様でも、世界の法律でも、その他の如何なるものでもありませ

ん。違いますでしょうか。 その様に私たちは外からの情報をムタ

ランムチーするほど教え込まれ、その知識が全てであるかのよう

に思い込んで生きるようになってしまったが為に、それまでの全

ての記憶を心の奥底(潜在意識)に閉じこめて(日本神話の中に

、天照大神が天上の岩窟・天の岩屋戸に閉じこもってしまう。す

ると天上も下界も真っ暗になり、悪神「人の心が作った偏見や差

別」 が横行しだし、災いが生じはじめたとあります。)しまったの

です。(私たちが知識の中で失った知恵はどこにある?私たちが

情報の中で失った知識はどこにある?TS、エリオット)。


それ故に、私たちが今まで自分(自我・肉体)だと思っていた自

分は、実は本当の自分*1(釈迦の教えに"我執をなくす実践論

"があります。釈迦は"生老病死"の人生の問題になやんで出家

し、修行の道に入りました。すべてが無常(諸行無常)であるとい

う真実においては、若さ、健康、肉体はやがて老病死に移りかわ

るし、ひとたびそれが現実の身におこったときには、その無常な

る現実はあるがままにうけとめられざるをえない。


しかし、私たちには自我があり、我執がある。無常の事実をある

がままにうけとめることはむずかしい。すると、ここに「苦」が生じ

る。苦とは思いどおりにならないことをいう。釈迦が自ら悩み、乗

り越え、確信し、そして教えとして説いたのは、この我執をなくせ

ということだったのです。インドでは、何事であれ、それが自分の

ものである、というときには、自分の思いどおりになり、しかも永

遠に存続するもの、と考える。


しかし万物無常であるかぎり、そうした存在はありえない。だから

こそ釈迦は、いかなる事物ないし現象についても、これは自分で

ある、自分のものである、と固執するのは誤りであると説いたの

です。つまり、釈迦は今自分だと思っている自分は、本当の自分

ではないとうけとめ、我執を除けという実践的な意味で無我を説

いたのです。) *1ではなくて、この地上界で真の自分を悟らん

が為の人生行路の渡り船にしかすぎません。


この世に生を受けて今日まで慣れ親しんできたこの肉体とは、魂

がこの現世で修行を積むために使う道具(五官)でしかないので

す。その道具が自分自身ではないのです。その道具を操ってい

るのが、私たちの、この五官(眼、耳、鼻、舌、身)では検知する

ことのできない、本当の自分"潜在意識"なのです。


そこで、今まで自分自身だとばかり思っていた、この道具という

肉体を操っている本当の自分に、今までの自分を"変革"し、心を

開いて、魂を浄めていくのです。それを”浄魂”と言います。しかし

、浄魂を一朝一夕に出来る人は誰もいません。だから焦らないで

、徐々に徐々にやっていくのです。その為には先ず、自ら”真理”

を徹底的に探究するのです。そして、自らの心の中にある様々な

「?」マークをひとつ、ひとつ消していくのです。或る程度消してい

ったときに、心の奥に喜びを感じます。感じ方は人によって多少

違いますが、確実に実感として自覚できます。それが悟りへの第

一歩なのです。


さて、私たちの本来の魂は、宇宙意識(神)自らを以てして個別

化されたものであり、森羅万象は、宇宙意識自らの自己表現で

ある。(その事を、時の人はどのように解釈したのか、世界には

沢山の神々が祀られている。) その自己表現(宇宙)が未だなか

った、むかし、むかしの、そのむかし。久遠の今という悠久の時の

流れの中で、我は深〜い眠りの中にあった。その眠りの中は"無

"の状態、何もありません。


静寂一元・平安一元・安らぎ一元・静かな、静かな場だけがある

状態。それから暫くして、我は目が覚めた。その瞬間、我は自ら

が"ある"と言うことに気付いたのです。 故に、「我はあると思うが

故に我あり」なのであります。さて、自らはある!と言うことに気

付いた我は、自分があるということは他にも何かがあるのではと

思い、探しました。一生懸命探しました。しかし、どこを探しても自

分以外には何もなかったのです。(自らが宇宙空間そのものです

から、何処に往っても自分でしかないのです。故に、時空と言う

概念はないのです。)


疲れました。そして自分以外には何もないと認めたのです。さて

探すのに疲れた我はもう探しません。もうそこにドシッと思いを据

えなければいけないからです。自分しかいないということで、我は

ただひたすらにあるものであります。 自分以外に何もないという

ことは悲しいことです。そのものはまだ悲しいとか寂しいということ

は知りません。


しかし疲れ果てた。その辺から悲しいという思いが湧いてきたの

です。自分しかいないから寂しいという思いも出てきたのです。こ

れは私たちが涙を流して泣くような悲しさとか、寂しさとは違うん

です。"寂寥感"・・・寂しい、自分しかいない、退屈、もうありとあ

らゆるものを含んだ寂しさです。 一人遊びを始めました。自ら、い

ろいろな動きをして観る。意識ですからね、エネルギーだから動

きは感じるのです。


ある日、回転をしてみました。自分の一部をね、回転させてみた

のです。すると・・・回った!何もない「"無"」の状態から一個(究

極の素粒子)の回転が生じたのです。同じところをずっと回転でき

るのです。永久運動というものです。一人遊びをして面白いことを

発見したのです。 回転をしてみると、あっちにも、こっちにも無数

に回転ができるのです。直線だと何処までいっても直線行動で行

き着くところがない(無限ですから)。


回転して初めて面白いと思ったのです。回転がいくらでも創れる

からです。直線行動だとぶつかり合ってどうしようもないけど、回

転だと意識するだけで沢山できるのです。 しばらく回転して遊ん

でいたが飽きてきた。飽きてきたところで思考を変えて、一つの

回転をひっくり返してみた、違う回転になった!!これには吃驚

仰天です。右回転をひっくり返すと左回転になる。逆に左回転を

ひっくり返すと右回転になる。一人遊びが楽しくなってきました。


そこで、同じ回転同士を引っ付けてみた。引っ付かない。今度は

違う回転同士を引っ付けてみたら、引っ付いた。回転と回転が巧

く噛み合うということを発見しました。これが、"創造原理"です。

そして、悠久の今という時の流れの中で、創造原理を応用して

様々に回転と回転とを組み合わせて見たところ、ピカッと光りを発

した。これが"陰陽の原理"です。


"光あれ"、"光にて満ちよ"その時までは光もありません。闇もあ

りません。意識のみがあります。 光というのは意識の象徴のこと

です。私たちは光がなければ闇の中を歩くことはできません。し

かしながら私たちを導く光は私たちの意識ではありませんか。こ

れは象徴的な言葉なのであります。"光"=「意識・神・愛」そのも

のなんですね。 さて光も闇もないところに光を生じさせた。


これに、尚かつ陰陽の原理で右回転も左回転もない電子や陽子

を様々に組み合わせることで多種多様な現在の宇宙が出来上っ

たのです。我はただひたすらの悲しみを知るがゆえに、我は久遠

の寂しさを知るがゆえに、創造の喜びと愛する喜びを知りました。

だから素粒子一個といえども、原子一個といえども、我にとって

は愛する「"ひとり子"」なのです。そして、そのものは自分と自分

がお互いに協力し合って、自らの"愛"を基本として創造された宇

宙は、(創られた宇宙は無限ではない。その宇宙を取り巻く空間

こそ無限なる、「宇宙意識であり・生命であり・天・空・無・エネル

ギー」である)ただひたすらに、自らを与えっきりの創造活動から

生まれた、愛そのものではありませんか。


我は無限の悲しみを知るが故に、我は唯ひたすらに創造し、唯

ひたすらに愛する。故に、私たちは愛から生じた愛、愛そのもの

ではありませんか。(神は愛なり、愛は許しなり)ところが、愛そ

のものだった汝たる我は、創造の自由と、行動の自由というなか

で、自由意思の訓練(経験)をするようになったのです。


そして、自らを以ってして多種多様に、表現を成してきたのです。

しかし、宇宙誕生という初期の頃は、汝たる我の意識の中は何も

書き込まれてない白紙状態。つまり、表現としての経験の乏しい

状態で、お互いにお互いの表現を誉め讃えあいながら、創造の

喜び、表現の喜びを分かち合い、無限宇宙の拡大(科学では膨

張という)を成していました。


ところが、そこから悲劇は起こったのです。「アダムとイブの伝説

」「荒野における断食」「汝、密室に入りて決意せよ」の気も遠くな

るほどの長い苦悩の歴史の始まりです。それまでは、好きこそも

のの上手なれと言わんばかりに無限宇宙の創造活動を成してい

た汝たる我は、ある日、どうだ今度の俺の表現はすばらしいだろ

う、見事な出来映えだろう、と誇らしげに言った。確かに見事なも

のだ、今までにない出来映えだ、すばらしい、と汝は言った。


しかし、ここの所はこうして、そこの所は、ああしたほうがもっと見

栄えがあるのではないかと提案してみたところ、汝は、何故!?

俺の表現にけちをつける(今でも同じ事をやっている)といってす

ごい剣幕で怒り出した。それが喧嘩「戦争ゃ闘争」の始まりであ

る。それ故に最初に創られた宇宙は何度も破壊されたのです。

それが宇宙の始まりはビッグバンであるとの科学者の統一見解

説であります。


そして、いつの間にか、己が神であることを忘れ、神の御心を忘

れ、自我のままに生き、煩悩のままに、地上生活を営むようにな

ってしまったのです。(それが「堕、天使」のプロセスである)無限

宇宙(父の、愛の表現・人間の魂の奥にそのときの記憶が厳とし

てあります)の創造活動よりも、この地上界に執着を感じ始めたと

きに、人間の堕落は決定的となりました。


だから本来はない、初期の宇宙で起こった事とそっくりの、欲望と

闘争の世界(恨み・憎しみ・妬み・誹り・怒り・愚痴・私利私欲・et

c)を自らが作って悩み、苦しみ、挙句の果てには、自分で作った

悩み苦しみの罪(カルマ・業)を誰かのせいにして罪の言い逃れ

をするようになってしまったのです。 自分で蒔いた種は自ら刈り

取らねば、誰が刈り取ってくれるのでしょうか?・・イエス様や、お

釈迦様が刈り取ってくれるのでしょうか?


イエス様や、お釈迦様はそのカルマをいかにして刈り取るのか

、その方法を自らを以ってして示されたのではないでしょうか。(肉

に死して、霊に生よ・汝の隣人を、己を愛するがごとく愛せよ)自

らの存在があるから、苦悩する自分があるのであって、自らの存

在がなければ、苦悩する自分はないのです。 故に、自らの存在

は偶然ではなくて、必然である。


その目的は、自ら蒔いた種を、自ら刈り取らねばならないために

生まれてきたのです。カルマの刈り取り(解脱)を成さねば、これ

から何回、転生輪廻を繰り返してもカルマは永遠について廻るの

です。その事を或る人は、人生とは山登りのようなものであると・

・・富士山の梺から頂上を目指して一生懸命歩き続ける人。


過去(教訓)という重荷(過去の過ちは誰にでもある。しかし、過

去に過ちを行ってしまったとしても、一番大事なことは、もう二度と

同じ過ちは起こさないと強い意志をもって、深く心を改めて反省し

、あとはひたすら精進すればいいのです。何時までも、過去の重

荷を持ち越し苦労していては人生は終わってしまう。 「世の中に

は、過去の重荷を背負って、自らが命を絶つ人が多くいますが、

それは絶対にしてはいけません。


折角、この世に生まれて、そして与えられたこの解脱という機会

を無駄にしてしまっていいのですか?おとぎ話の中にも書いてあ

りますが、私は今、日常生活の中で何をするにしても誰かに手伝

ってもらわなければ出来ません。健康な人には何でもないような

行為、行動が自分にとってはそれこそ大変なことです。人生には

様々なことが突然やって来ます。そのお気持ちはよく分かります

。一緒に頑張っていきましょう。


私も同じ事をして、何度も彷徨った事があります。しかし、今は無

限の可能性に向かって、何処まで成し遂げられるのか、毎日が

楽しみです。」)を背負って道なき道をトボトボと進む人。 藪の中

に入り込んで暗中模索をしている人。一合目まで辿り着いて下を

見下ろして景色の美しさに見とれて一喜一憂している人。二合目

まで辿り着いて流れい出くる汗をタオルで拭き取りながら、しばし

の休憩をとっている人。


私は疲れました、もうこれ以上歩けませんと弱音を吐いている人

。・・・かと思えば、三合目まで登り切り、一合目や二合目では観

ることの出来なかった景観のすばらしさを味わってはしゃぎ廻って

いる人。山を登りながら相手の人と、チョットした些細なことで、喧

嘩になり、別々に山を登っていく人。山登りは、きついと言って山

を下って、慣れ親しんできた我が家(墓)へ帰る人。


登山の途中でこの世を去って逝く人(この場合は、もう一度この

世に生まれて、登山の途中からやり直さなければならない、それ

が、転生輪廻の法則(自らが作った)だからです。しかし、そのと

きの登山は前世の登山よりも、厳しくて、過酷な登山になる可能

性が高い「自らの選択」)それぞれです。 故に今生、何はさてお

き、先ず第一に解脱の成就を成し遂げなければならないのです。


成就の秘訣は一切の物事を言い争わず、疑わずに自らが宇宙意

識であることを心の中で実感として自覚できるまで瞑想を続ける

ことです。宇宙意識の御心、それは「善、悪の差別もなく、何の見

返りも求めず、全ての人々に平等にエネルギー(愛)を与え続け

ている"太陽の心"」そのものなのです。 そして、自我からの解脱

とは自らの霊性に気づき、実在たる我(神我・潜在意識・内在の

キリスト)に心を開き、内からのメッセージに真摯になることです。


さすれば汝、"1" を知る。"1"を知るものすべてを知る。すべては

"1"から始まっているからです。そして"1"を知るもの"0"(無・空

)を知る。全ては”0”の中にあり、その全ては”1”から始まり、”2

”以降はなのです。”2”以降は人間が作ったのです。人は自分で

ありながら、自分のことがわからない。わからない自分で生きて

いながら、他を知ろうとしているのではないでしょうか? 自分を知

らずして何も知ることは出来ません。では、その自分とは何でしょ

うか?私たちが今まで、自分だと思っていた人体を、科学的に観

てみましょう。


宇宙を含めて、私たちの周りに存在する生き物や物質は全て原

子や分子などの粒子から出来ています。勿論私たちの体も例外

ではありません。 全ての物質をどんどん細かくしていくと、先ず水

素や酸素などの原子に辿りつきます。原子は中心の原子核とそ

の周りを回る電子から出来ています。さらに原子核は、陽子と中

性子という粒子の集まりで造られています。 そして、陽子や中性

子もさらに小さな粒子から出来ていることが明らかになりました。


究極の粒子、素粒子です。素粒子は比較的重いクオークと比較

的軽いレプトンというグループに分けられ、レプトンは物質を離れ

自由に動くことが出来ます。レプトンの中でもっとも小さく性質が

謎に包まれているのがニュートリノです。 ニュートリノは宇宙の中

に充満し大量に飛び交っています。地球さえも突き抜けてしまう

粒子です。


このニュートリノにはこれまで質量がないと考えられてきました。

数年前、この常識を打ち破る発見が日本の岐阜県神岡町の山中

でありました。 地下千メートルの空間にその発見の舞台、観測

装置スーパーカミオカンデがあります。岩盤をくり抜いて数年前に

完成したこの装置の心臓部は高さ四十一メートル直径三十九メ

ートルの巨大なタンクです。その中には五万トンもの水が貯めら

れ、その周りには一万を超える超高感度の光センサ−が隙間無

く設置されています。


スーパーカミオカンデはタンクの中に飛び込んできたニュートリノ

を観測します。ニュートリノはごくまれに水の分子とぶつかり進行

方向にドウナツ状の弱い光を出します。スーパーカミオカンデはそ

の光を内側のセンサーで検知します。一日に捕らえるニュートリノ

は凡そ三十個、光の発生によって飛んできた方向を調べる仕組

みです。 ここで研究者達は休むことなく観測を続け、ニュートリノ

を巡る最大の謎に迫ろうとしてきました。


それはニュートリノに質量はあるかどうかという問題でした。百五

十億年前におきたビックバン以降、膨張(宇宙意識の無限瞑想

による宇宙の拡大)を続ける宇宙、もし宇宙に大量に存在するニ

ュートリノに質量があれば将来はその引力によって宇宙は収縮し

消滅するともいわれています。


もし、その収縮説が事実だとすると、これまでの物理は根本から

見直しを迫られることになります。・・・と科学的には言われていま

す。つまり、科学では現在ニュートリノが素粒子「物質の最小単

位」であると定義しており、そこから先は解明されていません。し

かし、或る科学者は、 そのニュートリノも、ドンドン、ドンドン溯って

いけば、一個の究極の素粒子に到達するであろう・・・と、語って

おられます。


その素粒子こそ宇宙の始まりであり、宇宙の中心であり、汝たる

我であり、汝たる我の先祖である。 では、その素粒子の回転を

止めてみましょう。そこには、何があると思いますか?森羅万象

全ての根源 『意識』 だけがあるのです。だから、「色即是空・

空即是色・宇宙即我」なのです。その証は、人と神(宇宙意識)と

の合一体験として、瞑想によって直接的、直観的に究極の実在」

を知ろうと探求すれば、誰もが「心」の中に言葉だけでは表現で

きない程の"エネルギー"を実感として自覚できるようになるでし

ょう。


神秘主義の形式や神秘体験の強烈さにはさまざまなものがあり

ますが、神秘主義の本質は形式ではなく、瞑想によって裡から得

られる生の質にあるのです。神秘的生は、生産力、平安、静寂、

喜びといったもので特徴づけられ、自己の内と外は神との合一の

中で調和する。


それでは、自己の探求を成すには、まず理論を理解しなければ

なりません。道理がわかって、初めて自分を知ることが出来るの

です。そして、本当の自分を知ることが出来たとき、理論理屈もな

くなります。(真の地獄を観たものは、真の頂点に至る。真の頂

点に至ったものは、真の地獄も頂点も無いことを知るでありましょ

う。)


人類は、人種を問わず、如何なる者でも無限なる「意識」と言う”

チャンネル”を持っています。そのチャンネルを、形而上の世界に

合わすのか?形而下の世界に合わすのか?それはあなたの自

由意志が決めるのです。


さて、あらゆる宗教で人間は神様がお創りになったと説きます。

では創られた人間を溯れば、創った神様に辿り着くのが常識で

はないのでしょうか。出てきたところが解らなければ、帰るところ

も解らないのではないでしょうか。


「親(神)は愛する子等を、学習の旅に出した(可愛いい子には

旅をさせよ)学習(経験)を終えた子等は、家(内)に帰る。親と子

等は一体となり、学習の喜びを語り合い、学習(経験)を活用して

無限の創造活動の楽しみを分かち合う、親は幸福である」


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